奈良公園の中心部に堂々と佇む東大寺大仏殿は世界最大級の木造建築物として知られ、毎年国内外から多くの観光客が訪れる日本を代表する観光スポットです。高さ約15メートル、重さ約380トンにもなる盧遮那仏坐像が安置されたこの建造物は、単なる寺院建築を超え、日本の歴史、文化、技術力の結晶とも言えるでしょう。しかし、その壮麗な姿の裏側には、謎に包まれた歴史と逸話が存在します。
今回は、東大寺大仏殿にまつわる代表的な謎をご紹介します。
東大寺大仏殿の謎①大仏建立はなぜ始まった?
東大寺は、聖武天皇の命により718年に建立されました。聖武天皇がなぜ奈良を東大寺の建立地として選んだのか、その理由は諸説あります。当時、奈良は日本の政治、経済、文化の中心地であり、仏教信仰も盛んだったため、国家鎮護の寺院を建立するには最適な場所だったという説。聖武天皇自身が仏教に深く帰依しており、東大寺を拠点として全国に仏教を広めようとしたという説。
聖武天皇の母である元明天皇が、藤原氏との権力争いに勝利するために、東大寺建立を推進したという説。
いずれにしても、東大寺が奈良に建立されたことは、当時の政治情勢や宗教的な背景と密接に関係していたと考えられます。しかし当時は天平飢饉と呼ばれる大規模な飢饉が発生しており、国家財政は逼迫していました。そのような状況下で、なぜ巨大な仏像を建立することができたのでしょうか?
この謎を解く鍵となるのが、東大寺と朝廷の関係です。東大寺は、聖武天皇の母である光明皇后が建立した寺院であり、朝廷の庇護を受けていました。大仏建立は、国家の繁栄と仏教の普及を願う聖武天皇の強い意志と、それを支える朝廷の力によって実現したと考えられています。
東大寺大仏殿の謎②大仏の構造と技術の謎とは?
東大寺大仏は青銅で作られた高さ約15m、重さ約500トンであり。当時としては世界最大の金銅製仏像でした。このような巨大な像を造形するための技術は、奈良時代には他に例がありませんでした。
当時の技術で、どのようにしてこのような巨大な仏像を造ることができたのでしょうか?支柱も含めた全体重量は推定1,000トン以上にもなり、その重量を支える土台の構造が謎とされていました。近年の調査により、大仏座礎の下に深さ8mの大穴があり、その内部に組積造りの補強構造があることがわかりました。
鋳造技術も謎だらけでした。大仏は8つの部分に分けて鋳造され、後から継ぎ目を溶接して組み立てられました。分割鋳造された8つの部位の内側は滑らかですが、外側には鋳造時の鋳型の痕跡が残っています。この鋳型は何から作られていたのか、長らく不明でした。近年の研究で、鋳型の材料は陶磁器であり、それも最高級の素材を使用していたことが分かってきました。8つに分割された大仏各部位を、確実に継ぎ目無く接合するためには高度な技術が必要でした。当時はボルトや溶接はなく、鉛と鉄の込め物で固定していたと考えられています。
このような高級陶磁器製鋳型を巨大な大仏に用いた技術は、当時としては世界最先端の技術でした。
大仏は青銅に金メッキが施されています。金メッキの面積は約130㎡と推定され、その金の総量は約200kgにもなると言われています。標準的な新築一戸建て住宅の間取りが、4LDKで床面積が100平方メートル前後とすると、130平方メートルはそれよりやや広い家一軒分の広さになります。つまり、金メッキに包まれた金の新築住宅というイメージです。数百kgの金を箔に延ばし、大仏全体に均一に張り付ける技法は、まさに最先端の金属加工技術が用いられたと考えられています。
金めっきには水銀が用いられたと推定されています。この手法は、金と水銀を合金化させ、その後加熱して水銀を飛散させる高度な技法です。大面積に均一な金めっきを施すには、このような化学的手法が不可欠でしたが、多くの建設に関わった多くの職人が水銀中毒の犠牲になった裏面史もあります。
また、大仏殿の建設には、膨大な資金が必要とされました。当時の記録によると、その建設費用は約2,650万両にも及んだと言われています。建設費用が約2,650万両であったという説は、江戸時代後期の儒学者・林道春(1768-1828年)によって提唱されたものです。林道春は、東大寺の古文書などや様々な記録から大仏殿の建設費用を推定しました。その結果、総額が「銭凡そ八十億五千五百万銭」、つまり約2,650万両に相当するという結論に至ったのです。この数字は、当時としては途方もない金額でした。完全な換算は困難ですが、東大寺大仏殿の建設費は現在の数千億円から1兆円程度の巨費に相当する可能性が高いと考えられます。
東大寺大仏殿の謎③建立の夢と修復の秘話とは?
大仏殿は、平安時代に2度にわたって焼失する大災害を経験しています。初めは864年の大火災、次いで1180年の源平合戦時の焼失です。特に、1180年の南東大寺焼討ちでは、大仏殿が焼失し、大仏も一部が溶け落ちてしまいました。
しかし、そのたびに大仏は修復されてきました。大仏の修復には、莫大な費用と技術が必要であり、多くの人々の協力によって行われました。
大仏建立の発願者である聖武天皇は、夢の中で巨大な仏像に感銘を受け、それを具現化しようと大仏建立を志したと伝えられています。大仏の修復にしても、単に仏像を蘇らせるだけでなく、東大寺の歴史と文化を継承していくという聖武天皇の夢を支えた人々の強い意志の表れでもあります。