奈良は、日本で最初に都が置かれた古都です。平安時代以前の日本の中心地として栄えた奈良には、多くの寺社仏閣が現存しています。その中でも、奈良の世界遺産・東大寺の南側に位置する興福寺は、日本最古の国家護持の寺院として知られています。
興福寺は、奈良公園内に位置する南都六宗の一つ、法相宗の大本山です。世界遺産にも登録されており、その荘厳な伽藍や貴重な文化財は、多くの観光客を魅了しています。興福寺は、藤原鎌足の子、藤原不比等によって710年に創建されました。平城京遷都とともに藤原氏の氏寺として建立され、その後、藤原氏の繁栄とともに発展を遂げました。しかし、この歴史ある寺院には、数々の謎や知られざる物語が隠されていることをご存知でしょうか。この記事では、興福寺の創建から現在に至るまでの歴史を紐解きながら、その背後に潜む謎や、あまり知られていない興味深いエピソードをご紹介します。
『奈良興福寺の謎①藤原氏による興福寺建立の謎』
興福寺の由来は、7世紀後半の天武天皇の病気治癒から始まったと伝えられています。
天武天皇は、豊受大神の託宣を受け、宮内に豊受大神宮を造営しました。そして病気平癒の祈願の際に、中国から帰国した慈覚大師に仏教の加護を請い、寺院の建立を命じたのが興福寺の起源とされています。
しかし、その一方で、この豊受大神宮と慈覚大師の関わりには謎が残されているのです。なぜ、中国渡航から帰国したばかりの慈覚大師が、即座に豊受大神宮に仕えることになったのでしょうか。仏教と神道の癒着関係の片鱗が見て取れるエピソードですが、その深層には解明されていない部分も存在するのです。
興福寺は「藤原氏の氏寺」として栄え、奈良時代から平安時代にかけて日本の政治や文化の中心として重要な役割を果たしました。奈良時代には、「東大寺」「薬師寺」と並び「三論宗」「成実宗」「倶舎宗」「法相宗」の四宗兼学の大寺として栄え、学問や文化の発展に貢献しました。
鎌倉時代には源頼朝や北条氏からの庇護を受け、寺院としての勢力を強めました。しかし、室町時代に入ると戦乱の影響で一時衰退し、戦国時代には大火に見舞われ多くの建物が焼失しました。それでも、江戸時代には徳川家康や徳川秀忠によって再建が進められ、現在の姿へと復興しました。
『奈良興福寺の謎②興福寺に残る宝物の謎』
興福寺には、五重塔、東金堂、北円堂など、国宝や重要文化財に指定されている貴重な建造物が数多く残されています。これらの建造物や仏像は、当時の優れた技術と芸術性を今に伝えています。
興福寺の南円堂南室には、1対の阿修羅像が安置されています。興福寺の宝物の中で特に有名な「阿修羅像」です。その独特な美しさと神秘的な雰囲気で多くの人々を魅了しています。しかし、この阿修羅像にはいくつかの謎が存在します。
一つ目の謎は、その制作年代です。一般的には奈良時代の作とされていますが、制作年代については明確な記録がなく、一部の研究者は飛鳥時代や平安時代の作である可能性も指摘されています。
二つ目の謎は、阿修羅像の表情です。この像の特徴的な表情は、一見すると悲しみや苦悩を表現しているようにも見えますが、同時に深い慈悲の心を持っているようにも感じられます。この二面性のある表情が、阿修羅像の魅力の一つであり、その意図については多くの議論がなされています。一説には、これらの像が釈迦の両腕の脇陰阿修羅(りけんのありゅうら)を表しているのではないか、との見立てがあります。この脇陰阿修羅とは、釈迦の守護神的な存在を指しています。
しかし、この見立ては完全な所以までは解明されていません。ただし、この温和な阿修羅像がなぜここに安置されているのか、という興味深い謎は残されたままなのです。
『奈良興福寺の謎③強大な武力を持つ興福寺僧兵集団の謎』
平安時代末期から鎌倉時代にかけて武士が台頭し、社会が不安定化する中で興福寺は強大な武力を持つ僧兵集団を擁し、朝廷や他の寺院と激しい権力闘争を繰り広げました。
なぜこのような武力を持つことができたのでしょうか?
その背景には興福寺は藤原氏の氏寺として広大な荘園を所有しており、この経済力を背景に独自の軍事力を組織し中央政府からの干渉を受けずに武装化することができたのです。また興福寺の僧兵は民衆の不満を代弁し社会秩序の維持に貢献することで、民衆から一定の支持を得いその力を増大させました。
これらの要因が複合的に作用し、興福寺の僧兵集団は徐々に強大な武力を持ち、政治や社会に大きな影響を与える存在となったのです。
しかしその強大な力は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって中央集権化が進み寺院の武装解除が行われるようになり衰退を始めます。寺領の没収や制限が決定打となり、興福寺の経済力は低下し大規模な僧兵集団を維持するための資金も失いました。
さらに武士階級の確立と身分制度の固定化により僧侶が武力を行使する正当性が失われ、興福寺僧兵集団は消滅します。