大阪と言えば、日本人の多くは「タコ焼き」「お好み焼き」「串カツ」などの総称である「粉もん」を思い浮かべます。「粉もん」とは、小麦粉を使った料理の総称で、うどん、そば、ラーメンなど、さまざまな種類があります。さらに大阪は「食い倒れの街」、1603年〜1868年の江戸時代は「天下の台所」と呼ばれるなど、食文化豊かな街として長い歴史を歩んできました。
古くから関西地区は、日本海側と瀬戸内海側を結ぶ交通の要衝に位置し、物資の輸送や流通に便利な場所として栄えてきました。「天下の台所」と称された大阪は、江戸時代に関西の中心地として、全国各地から食材が集まり、流通の拠点として栄えました。
こうした大阪の食文化の歴史により、現在の大阪の粉もん文化が誕生しまた。しかし、粉もんの歴史や文化、特徴などには、幾つかの謎が秘められています。
『大阪粉もん文化の謎①そもそも粉もんが普及したのはいつ?』
大阪では庶民的な料理として親しまれている「粉もん」ですが、その誕生については小麦粉の長い歴史を辿らなければなりません。
小麦粉を食べる習慣は、紀元前8000年頃、メソポタミアで始まったと考えられています。当時、小麦は粉ではなく雑穀や豆類と混ぜて、石で砕き焼いて食べられていました。
その後、臼を使って粉にすることで、料理の素材として使いやすくなり主食としての位置を不動のものにしました。
日本では、紀元前3世紀頃の弥生時代から小麦の栽培は始まったと考えられています。しかし、小麦は主に貴族や僧侶などの上流階級の間で食べられており、小麦栽培も盛んではなく庶民とは無縁の食材でした。
小麦粉が庶民の間で広く食べられるようになったのは、1603年〜1868年の江戸時代以降です。当時の農民は年貢米として米を取り上げられ、米をあまり食べられないため代用食として小麦生産を小規模に始めました。それが全国各地に広がり、石臼の登場で小麦粉を使ったうどんやそばなどの麺類となり普及していったと考えられています。
『大阪粉もん文化の謎②粉もんはなぜ大阪で進化したのか?』
大阪の粉もん料理の由来については、諸説あります。1500年頃の中世に海外交易の拠点として「自由・自治都市」を形成し、わが国の経済、文化の中心地として繁栄してきた堺の商人であった千利休は、茶道の茶菓子として、小麦粉に砂糖や水を加えて焼いた「麩菓子」を考案しました。この「麩菓子」が、現在のお好み焼きのルーツとされており、粉もんの由来とも考えられています。
また江戸時代の元禄年間(1688年~1704年)頃に、大阪で「麩焼き」と呼ばれる粉もん料理が登場したという記録があります。この麩焼きは、小麦粉を鉄板で焼いて、ネギやタコなどの具材をのせたもので、現在のお好み焼きの原型とされています。
しかし、なぜ大阪でお好み焼きや、タコ焼きといった粉もん料理が進化をしていったのでしょう?それは江戸時代「天下の台所」と大阪が呼ばれたことに謎の鍵がありました。
大阪は、海運の要衝として栄え、北海道から昆布が、土佐から鰹節が運ばれてきました。これらの豊富で良質な昆布と鰹節が合わさり「大阪だし」が誕生します。「大阪だし」が味のベースとなり粉ものを劇的に料理の域へと押し上げました。
大阪うどんの汁として、お好み焼きやタコ焼きには「大阪だし」と小麦粉がドッキングして、現在の豊かな粉もん文化が形成されたと考えられています。
『大阪粉もん文化の謎③タコ焼きを巡る数々の秘密?』
大阪のファストフードの代表格・タコ焼き。しかしその歴史は意外に浅く、戦後の1950年代から、町に店が増え始めたと言われます。
発案者には諸説ありますが、ルーツは、大正から昭和にかけて流行った、「ちょぼ焼」や「ラジオ焼」だと言われています。 ちょぼ焼きは、今のタコ焼き器を彷彿とさせる、半円の窪みを作った銅板や鉄板に、水で溶いた小麦粉を流し入れ、紅ショウガやコンニャク、ネギと醤油を入れて焼いたものです。
ちょぼ焼きからタコ焼きへと進化する時に、実は大きな影響を受けた食べ物がありました。それが兵庫県明石市の郷土料理である「明石焼」です。「明石焼」は、小麦粉とじん粉、卵とだし汁を混ぜた生地にタコを入れて焼き、つけ汁につけて食べる玉子焼です。
「明石焼」の材料に挙げたじん粉(沈粉)は、小麦粉を水で溶いた時にグルテンと分離してできるもの。グルテンは焼麩の原料などに使われる良質なたんぱく質ですが、じん粉(沈粉)は小麦粉からグルテンを取りだした際にできる副産物のようなもの。じん粉を乾燥させたのが浮き粉で、蒲鉾などの練り製品を作るときのつなぎとして使われています。この浮き粉を入れることで「明石焼」は独特のトロリとした食感を作り出しました。
大阪名物タコ焼きは、大阪府西成区の「会津屋」の創業者である遠藤留吉が「明石焼」をヒントに考案したとされています。 歴史は古く、1935年頃ラヂオ焼きに「明石焼」の製法を取り入れ小麦粉とじん粉、卵とだし汁を混ぜた生地にタコを入れて屋台で販売したのが現在のタコ焼きのルーツと言われています。「会津屋」は現在もタコ焼きの老舗として営業を続けています。
大阪名物タコ焼きの知られざる歴史を知っていると、バラエティー溢れる「大阪の粉もん文化」の楽しみ方もひと味変わるのではないでしょうか。